商大祭という名称について 「商科大学」を名称の一部に持つ大学がその大学で開催される大学祭に一般的につける名称。2020年現在では、兵庫県立大学神戸商科キャンパス、岡山商科大学で開催される大学祭の名称として使用されている。 当記事では兵庫県立大学 神戸商科キャンパス(神戸市西区学園都市)で開催される商大祭について説明する。 商大祭は毎年11月上旬に神戸市西区学園都市にある兵庫県立大学 神戸商科キャンパスで開催される大学祭、及び旧・神戸商科大学が1990年に現所在地に移転する前の神戸市垂水区高丸学舎で開催された大学祭のことである。 兵庫県下の県立大学(神戸商科大学、姫路工業大学 、兵庫県立看護大学 )が2004年に統合され兵庫県立大学となったが、各キャンパスが兵庫県下各地に点在している為、各キャンパス毎の大学祭の開催となり、神戸商科キャンパスでは神戸商科大学時代の大学祭名称をそのまま使用している。 明石市に在する同大学の看護学部(旧・兵庫県立看護大学)が明石キャンパスでは大学祭は行われず、学園都市キャンパスとの合同大学祭としたことで、大学統合後の正式名称は「商大祭 C-NAS祭」(C-NASはNURSEから由来するもの)とした。因みに看護学部の1年生は神戸商科キャンパスに通う。 大学統合直後から「兵庫県立大学祭」とするようにと大学当局からの要請もあったが、1990年に神戸商科大学が神戸市垂水区より移転して以降、学園都市内の住民にも「商大祭」の名称がかなり浸透しており、また「兵庫県立〜」は舌を噛みそうだという意見も多く結局「商大祭」の名称を残した。但し、2005年より正式名称を「兵庫県立大学祭 商大祭 C-NAS祭」とし現在に至る。 尚、姫路書写キャンパスでは同様に旧・姫路工業大学時代から引き続いて工大祭の名称で大学祭が行われている。 |
フリマの歴史 ●はじめに 商大祭フリーマーケット(以下商大祭フリマと略す)は、近隣住民の方からたいへん親しまれ、遠方から毎年かけつけてくれるファンの方もいるという、毎年恒例の名物企画であることはみなさんの周知の通りです。 現在の商大祭フリマの形になったのは私が卒業した後の1994年頃と記憶しています。私も何度か楽しませて頂きましたが、時々今も「俺もフリマをやればよかった」と思うことがあります。 旧神戸商科大学が垂水区の高丸学舎から現在の学園都市キャンパスに移転したのはちょうど私が3回生幹部の時でしたが、その当時はフリマを商大祭でやるという発想は全くありませんでした。 想像してみて下さい、フリマのない商大祭を。どういうことになるか現役メンバーのみなさんなら簡単にわかることでしょう。 では前置きをこのくらいにしてどのような過程で今現在の商大祭フリマの形になったのかをご紹介しようと思います。 ●神戸市垂水区高丸学舎時代(1984〜1989) 商大祭で初めてフリマが行われたのは1984年と言われている。但し、現在のように大学敷地に広範囲に賑わいをもたらす目的のものではなかった。出店も一般募集ではなく、実行委員会のメンバーが行なった為、フリマというよりはバザーと言った方が正しい。その後、1985年からはチャリティーバザールという形に変え、同様の企画が行なわれた。 現在の商大祭フリマを見て、フリマは広範囲に賑わいをもたらすことに効果的であり殺風景な場所を埋めていくものであると筆者は考える。高丸学舎時代においても大学内で何も企画が行なわれていない殺風景な場所があったことはあったが、メイン広場から隔離されており、特に気にならずフリマや模擬店で賑わいを拡めるという発想には至らなかった。 その後1989年は高丸学舎最後の商大祭であった。翌年度より学園都市キャンパスへの移転を控え、大学の敷地面積が大幅に広くなることから、例年の模擬店数だけでは大学敷地が埋まらないことが危惧されていた。 その年の模擬店担当者は、翌年度からの布石として、模擬店の数を倍増しなければならないと考え、殺風景な場所へも模擬店を拡大することを企画会議で提案した。そしてクラブ以外のゼミ単位、一般学生にも模擬店出店を広く呼びかけた。しかし、その努力の甲斐もなく多少は増えたものの、昨年度とさほど変わりない出店数に終わった。 同担当者は1989年商大祭終了後、神戸大学の大学祭を見学する。そして総合大学ゆえの模擬店、展示会の数の多さにショックを受ける。大学敷地内は模擬店や展示会で埋め尽くされていた。その圧倒的な規模を目の当たりにし、小規模大学の大学祭実行委員会という境遇にどうしようもない脱力感を感じざるを得なかった。 ●神戸市西区学園都市キャンパス時代(1990〜) そして1990年、新キャンパスでの初めての商大祭。予想されていた通り、事態は深刻な状況であった。「正門から本部棟にかけての緩やかな下り坂」、そして「本部棟と研究棟の間の通り」は閑散とした状態となった。正門からの長い道のりの末、やっとのことで模擬店ゾーンの賑わいに辿りつくという有様であった。 しかし、そのことについてもう誰も言い出すことはなかった。実行委員会内には、昨年の模擬店倍増計画の失敗により、諦めムードが漂っていた。クラブが増えない以上模擬店は増えない、みんなそう思っていた。フリマという発想には至らず、2つの閑散箇所の解消は次世代に持ち越されるのであった。 それから4年後の1994年、学園都市住民を中心に組織される育児団体の出店によるフリマが開催される。当時の名称は「ガレージセール」。現在のフリマの元となるものである。閑散箇所2ヶ所の内「本部棟と研究棟の間の通り」の閑散が解消、賑わいを見せた。 その後も引き続き、同育児団体の協力を得てフリマを開催するが、やがて実行委員会独自で出店募集も行うようになる。「模擬店の代替としてのフリマ」であることを実行委員たちは気づき始めるのである。 フリマは飲食物などを取り扱う模擬店に比べ物さえ集めれば、団体に属さない一般学生や一般の家族でも、お手軽に出店できる為、出店希望者も多い。模擬店で埋まらなかった敷地にも大学祭の賑わいをもたらす有効策であるのであった。 1998年からはネット上での出店募集も開始。地域住民や大学生からの出店申込みが殺到する。「正門から本部棟にかけての緩やかな下り坂」も完全にフリマで埋め尽され、懸案であった2つの閑散箇所の解消を達成する。これまでのフリマブース数の最高記録は約150ブース。こうして商大祭フリマは関西最大級と言われるまでに成長したのである。 その後2004年、県下大学統合により総合大学となったが、各キャンパスが兵庫県下各地に点在している為、各キャンパス毎の大学祭の開催となり、フリマが担う役割は変わることはなかった。そして毎年のマイナーチェンジを繰り返しながら、今も一般学生や近隣住民の方々に大いに親しまれる恒例行事として開催されているのである。 ★フリマ批判(これは適当に流してください) 毎年大盛況の商大祭フリマであるが、古参のOB一派の中には批判的な声をあげる者もいる。「大学生でない地域住民の出店者が多いフリマは商大祭の場所を彼らに貸しているだけで、商大祭の一企画とはいえない」というのが彼らの論調だ。 当然、フリマにより集客力が増加したことは否定されるに値するものではなく、また「地域住民との交流の場としての大学祭」も一つの考え方で、それを特に非難する理由もなく、彼らの考えは特に受け入れられるものではない。しかし、OBを中心にこの批判に興味を抱く者は少ないわけではない。 ●おわりに 結婚して子供が小さい時はよく近くのしあわせの村で定期的に行われるフリマに出かけ子供服を買ったりしたものでした。子供服は着られる期間が短く結構きれいなんです。商大祭フリマでも何度か買わせてもらったことがあります。子供が大きくなってからあまり出かけなくなり興味も前ほどではありませんが、大学生の時にこのフリマという発想がなぜなかったのかと今も思います。 日本フリーマーケット協会という団体が昭和54年から存在していたようで、私が大学に入学する以前から出店募集をして広い敷地で開催するというスタイルのフリマはあったと推測しますが、なぜそれを参考にすることがなかったのだろうかと思います。たまたま接する機会がなかったのか、今ほど流行っていなかったのか、そもそもフリマという言葉を初めて聞いたのはいつなのか、よく覚えていません。 フリマ協会が昭和54年から存在している以上、言い訳になってしまいますが、大学時代に多分「フリマ」という言葉を一度も聞いたことがないし口にしたこともないと思います。 フリーマーケットという名称で商大祭で同企画が開催されたのが'96年(それ以前の'94年と'95年はガレージセールという名称)ですが、一度、1年の上の先輩OBが商大祭でフリマをやるというので商品を提供したことがあります。その商品は最新型のビデオカメラのおまけのピクニックセットだったと記憶していますが、そのビデオカメラが発売されてすぐに買ったと記憶していますのでフリマの商品を提供したのは'97年だったようです。 そう考えるとフリマという言葉を私が知ったのは'96年〜'97年ではなかったかと。などとちょっとおもしろいので推測してみました。 話が飛びましたが、いずれにせよ、1990年に閑散とした商大祭をやってしまった当時の幹部としては、フリマを発想し現在の商大祭まで押し上げてくれた歴代のメンバーに泣きたいくらいに深く深く敬意を表す次第なのです。 |
プロコン プロコンとはプロコンサートの略である。大学祭にプロのミュージシャンを呼び、コンサートを開催する企画。一般的にはコンサートをライブと称することが多くなっているが、多くの大学祭実行委員会ではプロライブとは言わずプロコンと呼称することが多い。有名なミュージシャンであれば、大学祭にかなりの集客が期待でき、「○○大学の大学祭には□□□が来た」などと大学祭の評価基準となることもある。 そういえば2009年の清水翔太以来、有名ミュージシャンのプロコンはやってないようです。この10年ほどの傾向をみるとイケメン俳優のトークショーや吉本芸人のお笑いライブが多いようです。 これは良い選択だと思います。なぜなら、プロコンはトークショーよりも経費面でかなり非効率であると考えるからです。(どれだけ現役諸君がわかってやっているか知りませんが) プロコンは金がかかります。バンドであればメンバー全員分のギャラ、ソロ歌手であってもサポートメンバーのギャラが発生する。ギャラ以外では、機材レンタル料、機材運搬費、機材セッティングやPA操作に関わる大勢のスタッフ人件費、人数分の交通費など、詳しく言いませんけど、最低でもン〜百万はかかります。 それに比べ、トークショーはタレント(+スタッフ数人)のギャラと交通費だけで済みます。大学祭に有名タレントを呼ぶ目的が集客の為であると割り切った考えをするとして、より金をかけずにその目的を達成できるとすれば、プロコンをやるのは馬鹿げた話だと言うことになるでしょう。 私は現役の頃、プロコンを担当しました。かなりの低予算であまり集客を期待できないミュージシャンしか呼べませんでしたので結果は惨憺たるものでした。 当時は1年前の商大祭、そのまた前の商大祭もずっとプロコンをやっていましたのでそれが当たり前のことと思い何も考えていませんでしたが、思い切って「こんな低予算では人を呼べません。トークショーかお笑いに切り替えましょう」って言えばよかったと思います。今思えばなぜこんな簡単なことがわからなかったのだろうと思います。 まあそれでもですよ、全くプロコンを否定するわけでありません。その時々の状況に応じて金をかけてでもやりたい何かがあるかもしれませんし、メジャーどころのタイアップがついて寧ろそのメジャーどころの主催で開催するようなこともあると思いますので、今後も商大祭でプロコンをやることがあるでしょう。 恐らくプロコンが復活する時の担当者は先輩にも経験者がいない状況でやるんだろうと思います。その時に少しでもお役に立てたらと思いプロコンについてちょこっと説明しておこうと思います(トークショーにも役立つことも書いていますのでご一読を) 大学祭でプロコンを行う場合、仲介業者に依頼するのが一般的であろう。所属事務所やミュージシャン本人に直接交渉することも考えられるが、この場合、コンサート開催に関して専門的なノウハウが必要となる為、かなりハードルが高い。過去の商大祭の例では仲介業者を通すことがほとんどであった。では以下、仲介業者に依頼する場合の一般的な大学祭実行委員会の役割について、過去に行われた商大祭プロコンを参考にスケジュールに沿って説明する。 ●4月 ミュージシャンの候補決定 実行委員会内で決定することがほとんどだが、大学内でアンケートを実施する大学もある。 ●4月〜5月 候補を元に仲介業者へ所属事務所への問合せを依頼 仲介業者はスケジュール、ギャラなどの問合せを行う。 ●5月〜7月 ミュージシャン、及び日程・開催時間帯の決定(※1) ●7月 コンサート費用の支払い 実行委員会は仲介業者へ費用を支払う。所属事務所と直接の接触はない。 ●6月〜大学祭当日 宣伝活動 大学内での宣伝はもとより、ポスターを他大学の掲示板に貼らせてもらったり、雑誌の大学祭特集に掲載を依頼、大学祭情報サイトへの掲載依頼など様々な方法がある。(※2) ●8月 チケット制作 コンサートチケットを制作する。過去、デザインまでを実行委員会が行い印刷業者に依頼することが多かった。チケットぴあなどの業者に販売を依頼する場合はチケット制作も含めて依頼することが多い。(※3) ●9月 仲介業者とコンサート当日のスケジュールなどの打ち合わせ。以下、主な内容。 ・ミュージシャンの入り時間からリハーサル、コンサート本番までのスケジュール ・コンサート機材の搬入出の時間、方法 ・機材搬入出に必要な当日の人員 ・控室のセッティング、及び必要備品 ・ケータリング(弁当の手配など) ●9月 コンサート機材、搬入出のボランティア、アルバイト募集 大学祭実行委員会の人員で賄えないに場合に行う。その為、機材の量は早くから押さえておく必要がある。商大祭では応援団・体育会や他大学ヘルパーにほぼ無償で依頼することが多かった。(※4) ●9月〜大学祭当日 チケット販売 主なチケット販売の方法を列挙する。 ・学内の販売(生協、又は実行委員会の直接販売) ・他大学の生協に販売を依頼 ・チケットぴあなどの業者へ販売を依頼 ・ネット販売 有名ミュージシャンであれば、学内の販売だけで即完売するケースもある。チケットぴあへ依頼は手数料が必要となる。無名ミュージシャンであるとチケット販売は困難を極める。 ★チケットの価格決定 コンサート予算(大学援助金や寄付金などから捻出)+販売収入=開催費用と、トントンになるように設定されることが多い。その為、一般のコンサートと比較すると破格の価格となる。野外コンサートでは無料とすることが多い。 ★開催費用 ミュージシャンのギャラの他に、ソロ歌手であればサポートメンバーのギャラ、機材レンタル料、機材運搬費、機材セッティングに関わる大勢のスタッフ人件費、交通費などの費用がかかり、大学祭の企画の中で最も金のかかる企画である。詳しくはこの場では避けるが、最低でもン百万は必要である。(※5) ★苦労話 プロコンは、仲介業者に依頼さえすれば企画そのものは、そう難しくないが、「一大学生が慣れない芸能界を相手にする」という他の企画とは異なる側面があり、何かと苦労が絶えない。以下にそのエピソードを紹介する。 ・仲介業者に「今年の学園祭の女王だ」と全く無名のミュージシャンを紹介され、そのミュージシャンに決定したものの、チケットはほとんど売れなかった。 ・予算が少ない為、ギャラが安くかつ、これから売れそうな無名ミュージシャンに決めたが、そのミュージシャンがブレークしたのは大学祭終了一ヶ月後のことだった。(※6) ・多額の契約金を支払い、メディア露出度が高いバンドを呼んだが、意外にも会場は閉店ガラガラ状態だった。(※7) ・言葉のきついミュージシャン側スタッフ(東京弁)にヘルパーがキれ、なだめるのに必死だった。 ・昼食としてホカホカ弁当を用意したら「こんなもの食えないよ!」(東京弁)とミュージシャン側スタッフが怒りだした。 (※1)日程と時間帯の決定は充分に注意して欲しい。ミュージシャンのスケジュールを優先するので強く主張する必要はないが、そのミュージシャンに多いファン層のライフスタイルと曜日の関係を念頭においておくことをお奨めする。 (※2)所属事務所の意向によりある時期まで宣伝を控えるように指示されることもある。商大祭の日程周辺に別コンサートがあるとそのチケット売れ行きに影響を及ぼすことがあるからである。 (※3)昔はチケットぴあに販売を依頼するとぴあ専用用紙でチケットも作成してもらうことになり、手売り用に全枚数の一部を送ってもらうということがあった。コンビニ販売やネット販売が一般的となった現在では、ぴあも一括で印刷するということがないかもしれませんので直接お問い合わせください。 (※4)ここが最も重要な点と考える。伝統的な学内の他団体や他大学ヘルパーとの関係を築いていなければ無償のボランティアは望めない。望めない状況でプロコンをやるのであればアルバイト費も予算に計上した上でプロコンの開催可否を検討すべきであろう。 (※5)ミュージシャンのジャンルによっては弾き語りという開催形態で経費を抑えることができることもある。バンドをつけずカラオケという方法で経費を抑える方法もある。当然ながら人数が多いグループはその分ギャラは高くなる。 (※6)過去、この方法で成功した例として白井貴子、シーナ&ロケッツがある。成功確率は低いのでやらない方がいい。 (※7)私は2度この光景を見たことがある。お昼の人気番組にレギュラー出演し、スポーツのテーマ曲を達成しているにも関わらず会場は惨憺たる有様だった。テレビの露出度とコンサートの集客力は必ずしも比例しないようだ。これはトークショーでも注意すべき点である。有名タレントの選択が上手な現役メンバーもこの点については充分注意して欲しい。 |
商大紅鯨団(ねるとん企画) 1988年から1996年まで計8回に渡り商大祭で開催された男女の出会いをテーマとした集団お見合い型出会い系企画。 言うまでものなく1987年から1994年まで関西テレビ系で放送された「ねるとん紅鯨団」(司会とんねるず)という素人参加型集団お見合い番組を模倣した企画である。当時「ねるとん」は一大ブームとなり、イベント企画会社や結婚相談所が主催する集団お見合いパーティーの代名詞となるまでに至った。商大祭以外の大学祭においてもねるとん企画は数多くの大学で開催され、やっていない大学祭を探す方が難しいほどであった。 大学祭におけるねるとん企画は大きく2つに分類される。一つはお見合いパーティー型のものと、もう一つはステージイベント型である。 前者は、前述のイベント企画会社などが主催するパーティーと同様のもので、放送された番組と同様、男女が好みの異性と自由に談笑するフリートーク、告白タイムなどで構成され、純粋に参加者に出会いを提供するものであった。 一方、後者は、ステージ上での男女のやりとりをおもしろおかしく観客に観せるものであり、どちらかというと、前者よりは大学祭企画としての性質が濃い。もちろん、彼女いない歴や告白タイム、大どんでん返しなど、放送された番組の内容が数多く盛り込まれたが、フリートークをモニターを通して覗き見のように観察するというテレビ録画放映ならではのおもしろさは表現しづらく、かってのお見合い番組であったフィーリングカップル5vs5やラブアタックの要素を取り入れることが多かった。 商大祭ではステージイベント型形式で行われることが多かったが、非公開の場所でフリートークの時間を設けることもあった。第1回開催ではブームに乗ってか否か、野外ステージ企画としては前例のない観客動員数と相成った。その後、1992年まで同名称で各年それぞれに趣向を凝らした企画が行われた。1993年以降も「商大Fall in Love」や「恋のバトルロイヤル」などの名称で同様の企画が行われたがねるとんブームの陰りと共に姿を消すこととなる。 ★その他の出会い系企画 「ねるとん紅鯨団」が放送される前にも人気博した出会い系テレビ番組があり各大学祭ではそれらを模倣した企画が行われた。 ●ラブアタック 1975年〜1984年まで朝日放送系で放送された「ラブアタック」を模倣した企画。1人の女性を巡り5、6人の男性が各種ゲームの勝敗により争奪戦を繰り広げるというもの。当時の番組構成と同様、ゲームに勝った一人だけが女性に告白できる形式とゲームの勝敗は特に関係なく全員が告白できる形式の2通りがあった。商大祭では初めて開催されたのは1980年であるが、番組終了後の1989年と1990年にしかも商大紅鯨団と並行で行われているのが特徴的だ。 ●フィーリングカップル5vs5 1973年〜1984年まで朝日放送系で放送された「プロポーズ大作戦」の1コーナーを模倣した企画。5人ずつの男女に集団お見合いをさせるというもの。大学祭では男女各々がどの相手を選んだかを最後におもしろおかしく発表するという番組の内容が再現された。番組で使用された電光掲示型大型テーブルをそのまま再現することは難しく、紐くじ方式や選んだ相手の名前をカードに書いて提出させるなどの工夫がなされることが多かった。商大祭では1980年頃に2回開催されたが詳細は不明である。 ●コンパにON 商大祭ではステージ企画ではないが掲示板(ネット上の掲示板ではない)を利用した募集企画も行われたことを紹介しておく。ネーミングセンスのある「コンパにON」は商大祭期間中、20代の男女を中心に合コン募集のプロフィール用紙を配り、そのプロフィールを掲示板に貼り出すというもの。プロフィール用紙には、合コングループ名、性別、年齢層、人数などを書く。合コンをしたい人がその掲示板を見て、気に入った異性のグループのプロフィールを見つけると、実行委員会に申し出てもらい、実行委員会は合コンの仲介をする。1988〜1990年に行われた企画を指すが過去にも1982〜1983年に同様の企画があったようだ。 ★商大祭における出会い系企画の歴史 これまでの商大祭で開催された出会い系企画を時系列に列挙する。テレビ番組の放送期間と比較するとやはりテレビ番組が企画に大きく影響していることがわかる。 (1973年 4月 プロポーズ大作戦放送開始) (1975年11月 ラブアタック放送開始) 1980年 フィーリングカップル5vs5 ラブアタック 1981年 フィーリングカップル5vs5 (1984年10月 ラブアタック放送終了) (1985年 3月 プロポーズ大作戦放送終了) 1986年 ラブアタック (1987年10月 ねるとん紅鯨団放送開始) 1987年 ラブアタック 1988年 商大紅鯨団 1989年 商大紅鯨団U ラブアタック 1990年 商大紅鯨団V ラブアタック 1991年 商大紅鯨団W 1992年 商大紅鯨団X 1993年 商大Fall in Love 1994年 恋のバトルロイヤル (1994年12月 ねるとん紅鯨団放送終了) 1995年 恋のバトルロイヤル 1996年 商大風恋愛ノスゝメ 最近の商大祭はなぜお見合い企画がないの?婚活とか流行ってるんじゃない?あれか?最近の大学生が恋愛ベタだから?とか思いましたが決してそうではなく、当時は単にテレビのブームに乗っていただけだったのです。 |
その昔、ダンパという大学生の為のナンパ企画があった ダンパとはダンスパーティーの略である。一般的には社交ダンスのそれを指すことが多いが、大学生の世界では1960年代から1990年後半にかけて、全国で盛んに行われた大学祭実行委員会やイベント企画サークルが主催するディスコ風のイベントのことを指す。 一般的なダンパの定義をまとめると以下の通りである。 1.大学祭実行委員会やイベント企画サークルが主催する。 2.大学祭の一企画ではなく、新入生歓迎ダンパなどというような形で春に行われることもある。 3.短くて1時間から長くて3時間程度のイベントである。 4.座席のないホールを貸し切って行われたり、学内の座席のない講堂や体育館で行われる。 5.有料である場合が多く、主催者はチケットを販売する。大学生を中心に販売される。 6.場内にディスコミュージックをとめどもなく流す。ユーロビートがその代表的な音楽ジャンル。 7.参加者は音楽に合わせ勝手気ままに踊る。 8.ミラーボールや激しい照明により場を盛り上げる。 9.一定間隔でチークタイムがある。ディスコミュージックとは異なる静かなムード音楽が流れ、男女が体を密着させながらゆるやかに踊る。 10.お立ち台があり、目立ちたがり屋が目立つ機会が設けられている。 11.男子学生はナンパ目的で参加していることが多い。 ★商大祭実行委員会主催のダンパ 兵庫県立大学(旧・神戸商科大学)商大祭実行委員会(以下、商実と称す)は古くは1960年代後半から最近では2000年まで、大学祭の一企画として、また5月下旬に春のイベントとしてダンパを行なった。(以下、商実ダンパと称す)大学祭では「後夜祭」という形で商大祭の最後を盛り上げる企画として講堂や体育館を使用し行なわれた。春のイベントにおいては神戸Fish Dance Hall や 神戸サンボーホールなどを貸切り1987年から1997年頃までは毎年1000人以上の動員数を誇った。 このようにたいへんな人気を誇った商実ダンパであったが、1998年頃から動員数が激減、2001年以降の春イベントはダンパ以外のものに切り替えられた。商実ダンパが行なわれなくなった原因について以下、ダンパの衰退にて述べる。 ★ダンパの衰退 長らくの間ダンパは大学生が主催するイベントの定番であったが、2000年頃から今日までダンパを行う大学は皆無に等しい。その衰退の最も大きな原因は「スーパーフリー事件」発生による大学ダンスイベントのイメージ悪化であろう。その他、以下のような世のダンスシーンの急激な変化なども一因である。 ●クラブの台頭 1994年頃から、世のダンスシーンはディスコからよりコアな音楽を求めるクラブへと移行していった。それに倣い、ダンパもディスコ風からクラブ風へと装いを変えることが多かったが、クラブはDJのパフォーマンスが中心であり、万人受けするものではなかった。商実ダンパにおいても1998年からクラブ風イベントに変更したが動員数は前年の半数に激減した。 ●ダンスシーンの低年齢層化 1990年代後半、世のダンスシーンにパラパラブームが巻き起こったが、パラパラの人気は大学生より一世代下のギャル層が中心であった為、大学生に受け入れられなかった。 ●チケット売りの困難化(商大祭実行委員会特有の問題) 商実では、古くから「預け」と呼ばれるチケット売りの手法を行なって来た。それは、女子大の門の前で、帰宅途中の女子大生に声をかけ、5枚〜10枚のチケットのチケットを預け、そして売りさばいてもらうようお願いするというものである。一定期間、その女子大生に頑張ってもらい、売れた分の代金と売れなかった分のチケットを受け取る。チケットを預ける際、特に保証金を受け取らない。ただ、氏名は当然のこと「自宅の電話番号」は必ず聞いておく。保証金なしとなると持ち逃げが心配されるところであるが、過去、女子大生たちはかなり誠実にチケット売りを行なってくれた。 ところが1990年後半から事態は一転する。突然、チケットの持ち逃げが多発するようになった。当時のメンバーは、その原因について「携帯電話の普及」であると断言する。「チケット預け時、携帯電話の番号しか聞き出せなくなった。携帯電話は着信拒否ができるし、機種変更で電話番号が簡単に変わる。それをされるとおしまい」と言っていた。自宅の電話番号を押さえることに大きな意味があったのである。結果、回収不能のチケットが増加した。これまでのダンパの制作方針が通用しなくなったのである。これもダンパ衰退の一因であると考えられる。 |
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